大航海時代は、世界史の中でも 頻出度が高く論述にも直結する重要分野です。
特に、コロンブス・マゼラン・ヴァスコ=ダ=ガマなどの航路や年号はもちろん、トルデシリャス条約や価格革命との因果関係まで問われるのが早慶レベルの特徴です。
この記事では、 大航海時代を代表する7人の冒険家(エンリケ航海王子、ディアス、ヴァスコ=ダ=ガマ、コロンブス、マゼラン、ヴェスプッチ、カボット父子)について、航路・到達地・意義を体系的に整理します。
さらに、各人物の解説末には基礎〜MARCH〜早慶レベルに対応した40問の演習問題+論述問題を用意。読むだけでなく、「一問一答や受験生が苦手にする正誤問題」から「論述対策」まで一気に仕上げられる構成です。
- 大型比較表つきで視覚的に理解
- 条約・価格革命とのつながりもカバー
- 280問の演習問題でアウトプットも完璧
大航海時代の冒険家を、「流れ+背景+演習」で一気に攻略しましょう。
大航海時代の冒険家7人比較表
冒険家 | 国 | 活躍時期 | 主な航路・到達地 | 目的 | 世界史上の意義 | 入試頻度 |
---|---|---|---|---|---|---|
エンリケ航海王子 | ポルトガル | 15世紀前半 | アフリカ西岸探検を推進(本人は航海せず) | 香辛料貿易・奴隷貿易・キリスト教布教 | 航海学校を設立し大航海時代の扉を開いた | ★★★★☆ |
バルトロメウ・ディアス | ポルトガル | 1488年 | 喜望峰到達 | インド航路開拓の布石 | ヴァスコ=ダ=ガマに繋がるインド航路開拓の先駆者 | ★★★★☆ |
ヴァスコ=ダ=ガマ | ポルトガル | 1498年 | インド(カリカット)到達 | 香辛料貿易の独占 | インド航路発見によりポルトガルの黄金時代を実現 | ★★★★★ |
コロンブス | スペイン | 1492年 | バハマ諸島・キューバ到達(新大陸) | 西回りで「インド」到達を目指す | 「新大陸発見」の象徴、トルデシリャス条約の契機 | ★★★★★ |
マゼラン | スペイン | 1519〜1522年 | 世界周航(途中で戦死、帰還はエルカーノ) | 香辛料諸島航路開拓 | 地球球体説を実証、太平洋・マゼラン海峡を初航行 | ★★★★★ |
アメリゴ・ヴェスプッチ | スペイン → ポルトガル | 1500年前後 | 南米沿岸を探検 | 新大陸の実態把握 | 「アメリカ」の名の由来、「新大陸」の概念を確立 | ★★★☆☆ |
カボット父子 | イギリス | 1497年〜 | 北米(ニューファンドランド)到達 | 北西航路探査 | イギリスによる北米進出の端緒を開いた | ★★★☆☆ |

第1章 エンリケ航海王子 ― 大航海時代を準備した
大航海時代の幕開けを理解するには、「なぜポルトガルが先行できたのか」を知る必要があります。
その答えのカギを握るのが、エンリケ航海王子(1394〜1460)です。
彼は自ら航海を行うことはなかったものの、航海学校を設立し、最新の地理・航海技術を結集させ、アフリカ西岸探検を推進しました。
この準備があったからこそ、後のディアスの喜望峰到達(1488)やダ=ガマのインド航路開拓(1498)につながります。
ここでは、エンリケの活動とその意義を、世界史受験生に必要な視点で整理します。
1. エンリケ航海王子とは誰か
エンリケはポルトガル王ジョアン1世の三男として生まれ、王族としての権威を利用しながら航海事業を推進した人物です。
特に重要なのは、サグレス(Sagres)に航海学校を設立したこと。ここでは最新の地理知識と航海技術が集約され、世界の海図作成や船の改良が進められました。
サグレスの基本情報
位置:ポルトガル最南西端、アルガルヴェ地方
地形:岬に近い港町で、大西洋に面しており航海の拠点に適した立地
歴史的意義:
・1419年頃、エンリケ航海王子がここに 航海学校(Infante’s School of Navigation) を設立
・新型船 キャラベル船 の開発や改良、海図作成、星位観測 などの技術革新が行われた
・ポルトガルによるアフリカ西岸進出の拠点として大航海時代を先導した
- 航海学校で扱われた内容
- アストロラーベ(星を使った位置測定)
- 羅針盤(磁石を使った方角測定)
- 最新型キャラベル船の開発
- 当時のアラブ商人から得た地理知識の収集
受験知識としては、この「航海学校=サグレス」の紐付けは重要です。
2. アフリカ西岸探検の推進と奴隷貿易の始まり
エンリケ航海王子は、アフリカ西岸探検を国家事業として推進しました。
目的は3つあります:
- 香辛料貿易ルートの確立
→ オスマン帝国の勢力拡大により、地中海ルートが封鎖されつつあったため - 金・象牙・奴隷の獲得
→ 特に奴隷貿易はここから本格化します - キリスト教布教とイスラム勢力包囲
→ 北アフリカのイスラム勢力に対抗するため
1444年、ポルトガルはアフリカから連れ帰った奴隷をリスボンで初めて公開競売にかけています。これは後の大西洋奴隷貿易の原型といえる出来事で、早慶レベルの論述で出題される可能性が高いポイントです。
3. セウタ攻略と大航海時代の始動
1415年、エンリケは北アフリカのセウタ(Ceuta)攻略を主導しました。
この地域はイスラム商人がサハラ交易を通じて金を集める拠点であり、セウタの占領はポルトガルがサハラ以南アフリカへのアクセス権を手にする転換点となります。
この攻略以降、ポルトガルは徐々にアフリカ西岸沿いに前進し、次々と航路を開拓していきます。この流れの延長線上に、ディアスやダ=ガマの偉業があると理解しておきましょう。
4. エンリケ航海王子の死とその後の展開
エンリケは1460年に没しますが、その後もポルトガルの航海事業は続きます。
- 1488年:ディアスが喜望峰に到達
- 1498年:ダ=ガマがカリカット到達
- 1500年:カブラルがブラジルを発見
つまり、エンリケの航海学校で蓄積された知識と人材育成が、ポルトガルの黄金時代を支えたといえます。
「カブラル」について詳しく!
カブラル も大航海時代ではかなり重要です。
ただし、コロンブスやマゼランほど頻出ではなく、出題は MARCHレベル〜早慶レベル に偏る傾向があります。
ポイントは 「ブラジル到達(1500年)」 と トルデシリャス条約との関係 です。
カブラルの重要性まとめ
1. ブラジル到達(1500年)
- ポルトガル王マヌエル1世の命令でインドへ向かう途中、航路が西にずれてブラジル東岸に到達。
- これにより、ブラジルがポルトガル領となる契機となった。
- 世界史では 「1500年=ブラジル到達」 が年号暗記ポイント。
2. トルデシリャス条約(1494年)との関連
- ブラジルは大西洋分界線の東側に位置していたため、
条約上ポルトガル領とされる。 - カブラル航海は、この条約の適用事例として問われやすい。
3. ポルトガル海上帝国形成の一環
- ブラジル到達後、そのまま喜望峰を経てインドのカリカットへ到達。
- ガマ航路の実績を引き継ぎ、インド航路開拓を実質的に成功させた第2の人物とも言える。
入試で狙われやすいポイント
- 1500年:ブラジル到達 → ポルトガル領確定
- トルデシリャス条約との関係 → 分界線の東側だったことを押さえる
- インド航路第2弾 → ダ=ガマ航路を実用レベルまで高めた
- ブラジル植民地化の起点 → 後のサトウキビプランテーションやアフリカ奴隷貿易につながる
出題頻度の目安
項目 | 出題頻度 | 出題例 |
---|---|---|
ブラジル到達(1500年) | 中 | 「ブラジル到達者を答えよ」 |
トルデシリャス条約との関連 | 中 | 「ブラジルがポルトガル領となった理由」 |
インド航路到達 | 低〜中 | 「ダ=ガマに続く到達者」 |
プランテーション開始 | 低 | MARCH〜早慶レベル限定 |
まとめ
カブラルは、ブラジル到達(1500年)+トルデシリャス条約との関係が最重要。
単独での論述は出ませんが、条約・ブラジル・ポルトガル海上帝国を絡めた設問ではよく狙われます。
5.エンリケ航海王子の入試で狙われるポイント(問題40問付き)
エンリケ航海王子は、「航海そのもの」ではなく「航海時代の準備」を進めた人物です。
- サグレス航海学校の設立(1419頃)
→ 航海技術向上の拠点。キャラベル船開発・星位測定技術・航海地図作成を推進。 - アフリカ西岸探検の推進(1415〜1460)
→ セウタ攻略(1415年)を皮切りに、西アフリカ沿岸へ進出。
→ 金・象牙・奴隷などのサハラ交易ルートを確保。 - ヴェルデ岬到達と奴隷貿易の開始(1444年)
→ 探検隊が赤道付近まで到達。
→ 同年、リスボンで初のアフリカ人奴隷公開競売が行われる。 - 大航海時代の幕開けを準備
→ 航海学校で育成された人材・技術が、
後のディアス喜望峰到達(1488年)やダ=ガマ航海(1498年)を支えた。
第1章 演習問題:エンリケ航海王子≪論述問題編≫
- エンリケ航海王子が推進した探検事業が 大航海時代の幕開けに果たした役割について、航海学校や航海技術の革新に触れながら 80字以内で説明せよ。
-
エンリケ航海王子はサグレス航海学校を設立し、航海技術やキャラベル船を改良した。これによりポルトガルはアフリカ西岸進出を進め、大航海時代の基盤を築いた。
この論述では、
- 航海学校(サグレス)
- 航海技術革新(キャラベル船・アストロラーベ)
- 大航海時代の幕開けへの寄与
を必ず盛り込むのが得点のポイントです。
第1章 演習問題:エンリケ航海王子≪レベル別40問≫
問1
エンリケ航海王子は自らアフリカ西岸を航海して探検を行った。
解答:誤(実際には航海せず、探検を推進した)
問2
エンリケ航海王子が航海学校を設立した都市を答えよ。
解答:サグレス
問3
エンリケ航海王子の探検目的として正しいものを1つ選べ。
A. キリスト教布教
B. 新大陸植民
C. インカ帝国征服
D. 北西航路探査
解答:A
問4
エンリケ航海王子が活躍した国を答えよ。
解答:ポルトガル
問5
エンリケ航海王子が探検を推進した最大の理由を答えよ。
解答:香辛料貿易と金の獲得
問6
エンリケ航海王子の活動時期を答えよ。
解答:15世紀前半(1415〜1460年頃)
問7
エンリケ航海王子が最初に攻略した北アフリカの都市を答えよ。
解答:セウタ(1415年)
問8
エンリケ航海王子の活動は、後のヴァスコ=ダ=ガマ航海に直接つながった。
解答:正
問9
エンリケ航海王子が活躍した時代に、ポルトガルが主に探検していた地域を答えよ。
解答:アフリカ西岸
問10
エンリケ航海王子は大航海時代の幕開けにおいてどんな役割を果たしたか、20字以内で答えよ。
解答:航海学校設立とアフリカ探検推進の中心人物
問11
エンリケ航海王子が探検を推進した背景を30字以内で答えよ。
解答:オスマン帝国による地中海交易の支配で香辛料確保が困難になったため
問12
サグレス航海学校で育成された航海者たちが開発した新型船を答えよ。
解答:キャラベル船
問13
エンリケ航海王子がアフリカ探検を進める中で注目した資源を2つ答えよ。
解答:金・奴隷
問14
エンリケ航海王子の活動で発展した航海技術を1つ答えよ。
解答:アストロラーベを使った緯度測定技術
問15
エンリケ航海王子の探検で最初に到達した重要な岬を答えよ。
解答:ヴェルデ岬
問16
エンリケ航海王子の死後、ポルトガル探検を継承した国王を答えよ。
解答:ジョアン2世
問17
エンリケ航海王子の時代、香辛料ルートを支配していた帝国を答えよ。
解答:オスマン帝国
問18
エンリケ航海王子の活動がヨーロッパ世界に与えた最大の影響を30字以内で答えよ。
解答:大航海時代の技術革新とインド航路開拓の基盤を作った
問19
エンリケ航海王子の時代、アフリカ西岸探検の重要な補給地となった島を答えよ。
解答:マデイラ諸島
問20
エンリケ航海王子の航海学校が大航海時代にもたらした最大の功績を20字以内で答えよ。
解答:航海技術と航路情報の体系的集積
問21
エンリケ航海王子はポルトガル王ジョアン1世の三男である。
解答:正
問22
エンリケ航海王子が設立した航海学校の所在地を答えよ。
解答:サグレス
問23
サグレス航海学校で開発・改良された新型船の名称を答えよ。
解答:キャラベル船
問24
エンリケ航海王子の探検推進の目的に該当しないものを選べ。
A. 香辛料貿易
B. 金・象牙獲得
C. イスラム勢力包囲
D. 新大陸植民
解答:D
問25
エンリケ航海王子はセウタ攻略(1415年)を主導した。
解答:正
問26
エンリケ航海王子の探検で到達した最南端は「ヴェルデ岬」である。
解答:正
問27
エンリケ航海王子の時代、ポルトガルはすでに喜望峰を回ってインドに到達していた。
解答:誤(喜望峰到達は1488年、ディアス)
問28
エンリケ航海王子が推進した探検で最初に奴隷がヨーロッパへ持ち込まれたのはいつか。
解答:1444年(リスボン奴隷市場公開競売)
問29
セウタはイスラム商人のサハラ交易の重要拠点であった。
解答:正
問30
エンリケ航海王子が探検を進めた背景には、オスマン帝国による地中海交易支配があった。
解答:正
問31
サグレス航海学校で使用された航海技術のうち、星の高度から位置を割り出す器具を答えよ。
解答:アストロラーベ
問32
エンリケ航海王子の探検の時代、アフリカ西岸で最初に建設されたポルトガルの要塞都市を答えよ。
解答:アルギン(1448年)
問33
エンリケ航海王子は香辛料貿易を独占するためインド洋まで進出した。
解答:誤(インド洋進出はディアス・ダ=ガマ以降)
問34
エンリケ航海王子の死後、探検事業を引き継いだポルトガル王を答えよ。
解答:ジョアン2世
問35
エンリケ航海王子時代、ポルトガルが進出した大西洋上の島々を2つ答えよ。
解答:マデイラ諸島・アゾレス諸島
マデイラ諸島とアゾレス諸島について詳しく!
マデイラ諸島とアゾレス諸島は大学受験世界史では頻出というほどではありませんが、大航海時代の流れを理解する上で重要で、特に論述・正誤問題・地図問題で問われることがあります。
結論から言うと、センター試験レベルではほぼ出ないが、難関大・地図問題・論述対策では重要です。
以下、受験生向けに整理します。
1. マデイラ諸島(Madeira Islands)
- 場所:モロッコ沖、大西洋
- ポルトガル領有年:1419年ごろ(エンリケ航海王子の指導下)
- 役割:
- 大航海時代初期の拠点
→ アフリカ西岸探検への出発点として活用。 - サトウキビ・プランテーション農業の先駆地
→ 奴隷を使った大規模農園のモデルケースとなり、その後のブラジルやカリブ海諸島のプランテーション経営につながる。
- 大航海時代初期の拠点
- 試験ポイント:
- プランテーション農業史の文脈で狙われる。
- 香辛料航路開拓のための中継地として、エンリケ航海王子と絡めて問われることがある。
2. アゾレス諸島(Azores Islands)
- 場所:ポルトガル本土から約1500km西、大西洋中央
- ポルトガル領有年:1431年ごろ
- 役割:
- 大航海時代の中継地
→ アフリカ航路やインド航路、さらにアメリカ大陸航路の帰還途中の補給地として重要。 - トルデシリャス条約との関係
→ 教皇子午線(1494年)を大西洋上で引くときの基準となる。
- 大航海時代の中継地
- 試験ポイント:
- 地図問題で1494年のトルデシリャス条約線を説明する際、アゾレス諸島が基準地点になることがある。
- 香辛料航路や新大陸航路との関連で問われることがある。
3. 出題されやすい大学・出題形式
大学レベル | 出題可能性 | 出題形式 | 関連テーマ |
---|---|---|---|
共通テスト | ★☆☆☆☆ | ほぼ出ない | ― |
MARCH・関関同立 | ★★☆☆☆ | 正誤問題 | 大航海時代の流れ |
早慶・上智 | ★★★☆☆ | 論述・正誤・地図 | トルデシリャス条約、プランテーション |
東大・京大・一橋 | ★★★★☆ | 論述・地図 | 大航海時代と世界経済史 |
4. 具体的な入試頻出ポイント
- マデイラ諸島
- エンリケ航海王子による開発
- サトウキビ・プランテーションの起源
- ブラジル・カリブ海プランテーションとの連続性
- アゾレス諸島
- トルデシリャス条約線の基準
- 帰航時の補給地
- コロンブスやヴァスコ=ダ=ガマの航海と関連
5. 受験対策アドバイス
- 共通テストだけなら覚えなくてもよい
→ ただし、大航海時代の地図で位置をざっくり把握しておくと◎。 - 難関大志望者は位置と役割を覚えるべき
→ 特にマデイラ=プランテーション農業の先駆
アゾレス=トルデシリャス条約基準点は必須。 - 地図とセットで覚えるのが効率的
→ 大航海時代の航路図に、マデイラ・アゾレス・カナリア・カーボベルデ・喜望峰をまとめて書き込むと記憶に残る。
まとめ
- マデイラ諸島 → サトウキビ・プランテーションの始まり(1419年)
- アゾレス諸島 → トルデシリャス条約線の基準点(1431年)
- 難関大志望なら必須、共通テストレベルなら軽く把握でOK。
問36
エンリケ航海王子の活動は後の「価格革命」に直接影響を与えた。
解答:誤(直接ではなく、香辛料貿易独占後の影響)
問37
エンリケ航海王子は教皇から「航海大司令官」の称号を与えられた。
解答:正(教皇マルティヌス5世から)
問38
エンリケ航海王子の時代、ポルトガルが最初に到達した赤道以南の地点を答えよ。
解答:ギニア湾沿岸
問39
エンリケ航海王子の探検推進で、アフリカ西岸で開発が進んだ交易品を2つ答えよ。
解答:金・象牙
問40
エンリケ航海王子が大航海時代にもたらした最大の功績を15字以内で答えよ。
解答:航海技術革新と人材育成
第2章 バルトロメウ・ディアス ― 喜望峰到達とインド航路の布石
1488年、ポルトガルの探検家バルトロメウ・ディアスは、ヨーロッパ人として初めてアフリカ南端・喜望峰(Cape of Good Hope)に到達しました。
この偉業は、エンリケ航海王子が推進したアフリカ西岸探検の集大成であり、後のヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路開拓(1498年)への決定的な布石となります。
世界史受験では「ディアス=喜望峰到達」の暗記で終わりがちですが、早慶レベルでは到達の背景・航路の技術革新・世界史的意義まで問われます。
ここでは、ディアスの航海を背景から詳しく解説します。
1. 喜望峰到達までの背景
15世紀後半、ポルトガルはエンリケ航海王子以来のアフリカ西岸探検政策を継続し、次第に赤道を越えて南下を進めていました。
- 背景要因
- オスマン帝国が1453年コンスタンティノープルを占領
→ 東方貿易ルートが遮断され、香辛料を直接入手する必要性が高まる - アフリカ沿岸の航路整備と地理知識の蓄積
- サグレス航海学校で進化したキャラベル船と航海技術
- オスマン帝国が1453年コンスタンティノープルを占領
1487年、ジョアン2世の命を受けたディアスは3隻の小型艦隊でリスボンを出港。
アフリカ沿岸を探検し、暴風雨に遭いながらもアフリカ南端を迂回し、ついに現在の喜望峰へ到達しました。
2. 喜望峰到達の意義
(1) 東方航路開拓の現実性を証明
- これまで「アフリカ大陸は果てしなく続く」という認識が強かった
→ ディアスが南端を回り込めたことで、インド洋への航路開拓が現実的になった
(2) ポルトガルのインド航路戦略を確立
- ジョアン2世は喜望峰を「嵐の岬」と呼びましたが、後に「喜望峰」と改称
→ 東方到達への希望を象徴する地名として歴史に残ります
(3) 香辛料貿易の支配構造を変える起点
- 以後、ポルトガルはインド航路開拓=香辛料貿易独占へ向けて積極的に動くことになります
3. 航海技術の進歩とアフリカ西岸探検
ディアスの航海成功は、技術革新なしには実現しませんでした。
- キャラベル船
- 小型・軽量で逆風でも航行可能
- アストロラーベと羅針盤
- 星の高度を利用した緯度測定
- 航海学校の成果
- サグレス航海学校で育った人材が多数乗船
- 地図の進化
- 「ポルトラーノ図」:実測データを反映した港湾地図
早慶レベルでは、「喜望峰到達=技術革新の成果」として問われることが多いので、暗記だけでなく因果関係を意識しましょう。
4. ディアス航海後の展開
- ディアスの航路情報はヴァスコ=ダ=ガマに引き継がれ、1498年にカリカット到達を実現
- 喜望峰到達後、ポルトガルはインド航路支配→香辛料貿易独占を確立
- 16世紀初頭にはゴアを拠点にアジア貿易網を形成
つまり、ディアスは「準備したエンリケ」と「完成させたダ=ガマ」の橋渡し役といえます。
5.バルトロメウ・ディアスの入試で狙われるポイント(問題40問付き)
- 喜望峰到達(1488年)
→ 嵐で流され偶然アフリカ南端を回り込み、「嵐の岬」と命名。
→ ポルトガル王ジョアン2世が「喜望峰」と改称し、インド航路開拓に希望を見出す。 - インド航路開拓の可能性を証明
→ 喜望峰を回る航路が実際に存在することを確認。
→ 後の ヴァスコ=ダ=ガマ航海(1498年) の直接的な前提となる。 - 航海技術の進展
→ キャラベル船の採用、アストロラーベによる緯度測定技術など、
サグレス航海学校で培われた成果を実戦投入。 - 香辛料貿易の覇権争いに影響
→ アラブ商人・ヴェネツィアの香辛料流通独占を回避し、
ポルトガルがアジアへ直接進出する布石となった。 - トルデシリャス条約(1494年)への伏線
→ ディアス航海でインド航路開拓の現実性が高まり、
スペイン・ポルトガル間の領有権競争が激化。
→ この争いがトルデシリャス条約締結につながる。
第2章 演習問題:バルトロメウ・ディアス≪論述問題編≫
- バルトロメウ・ディアスの 喜望峰到達(1488年) が大航海時代の進展に果たした役割について、その歴史的意義を 80字以内で説明せよ。
-
ディアスは嵐を越えて喜望峰に到達し、アフリカ南端を回る航路を発見した。これによりインド航路開拓の可能性が証明され、ポルトガルの香辛料貿易独占体制の基盤となった。
論述ポイント
- 年号(1488年) → 必須ではないが入れると高得点
- 喜望峰到達の偶然性 → 嵐による迂回は頻出
- インド航路開拓の可能性を証明 → 大航海時代の加速
- ポルトガルの香辛料貿易独占の端緒 → 大きな歴史的意義
第2章 演習問題:バルトロメウ・ディアス≪レベル別40問≫
問1
ディアスはポルトガル出身の航海者である。
解答:正
問2
ディアスは1488年、アフリカ南端の喜望峰に到達した。
解答:正
問3
喜望峰到達によってインド航路開拓の可能性が証明された。
解答:正
問4
ディアスの探検はスペイン王室の支援で行われた。
解答:誤(ポルトガル王室の支援)
問5
ディアスが航海を開始した港を答えよ。
解答:リスボン
問6
ディアスの航海目的は新大陸到達である。
解答:誤(インド航路開拓が目的)
問7
ディアスは航海中、嵐で船が流され、偶然喜望峰を回り込んだ。
解答:正
問8
ディアスが到達した当時、喜望峰は「嵐の岬」と呼ばれていた。
解答:正
問9
ディアス航海後、ポルトガル王ジョアン2世は喜望峰を「希望峰」と改称した。
解答:正
問10
ディアスの航海は、ヴァスコ=ダ=ガマのインド到達の直接的な前提となった。
解答:正
問11
ディアスが喜望峰に到達した年を答えよ。
解答:1488年
問12
ディアスの探検を支援したポルトガル王を答えよ。
解答:ジョアン2世
問13
ディアス航海の最大の目的は何だったか、20字以内で答えよ。
解答:インド航路開拓と香辛料貿易ルート確立
問14
喜望峰到達の意義を30字以内で答えよ。
解答:アフリカ南端を回る航路が実現可能と証明した
問15
ディアス航海時にポルトガルが使用した新型船を答えよ。
解答:キャラベル船
問16
ディアス航海中に活用された航海技術を1つ答えよ。
解答:アストロラーベによる緯度測定
問17
ディアスの探検が香辛料貿易に与えた影響を30字以内で答えよ。
解答:アラブ商人を迂回してアジア直航路確立の可能性を示した
問18
ディアス航海当時、香辛料貿易を支配していた地中海の都市国家を答えよ。
解答:ヴェネツィア
問19
ディアス航海以降、ポルトガルが進出を進めた東アフリカの港市を1つ答えよ。
解答:モンバサ または モザンビーク
問20
ディアス航海の成果を継承してインド航路開拓を達成した人物を答えよ。
解答:ヴァスコ=ダ=ガマ
問21
バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達した年を答えよ。
解答:1488年
問22
ディアスはスペイン王室の支援を受けて航海した。
解答:誤(ポルトガル王ジョアン2世の支援)
問23
ディアスが航海を開始した港を答えよ。
解答:リスボン
問24
ディアスの航海目的はインド航路開拓であった。
解答:正
問25
ディアスの航海中、嵐により偶然喜望峰を回り込んだ。
解答:正
問26
ディアスが「嵐の岬」と名付けた地点をポルトガル王が「喜望峰」と改称した。
解答:正
問27
ディアス航海時に使用された新型船の名称を答えよ。
解答:キャラベル船
問28
ディアス航海で活用された航海技術のうち、星の高度から位置を測定する道具を答えよ。
解答:アストロラーベ
問29
ディアスの航海により、アジアへの直接航路の存在が確証された。
解答:正
問30
ディアス航海当時、香辛料貿易を独占していた地中海都市を答えよ。
解答:ヴェネツィア
問31
ディアス航海の背景には、オスマン帝国による東地中海貿易支配があった。
解答:正
問32
ディアス航海はポルトガルの香辛料貿易独占をすぐに実現させた。
解答:誤(実際の独占はダ=ガマ航海以降)
問33
ディアス航海後、ポルトガルが最初にインド洋交易を支配した都市を答えよ。
解答:ゴア
問34
ディアス航海によって最初に接触した東アフリカ沿岸都市を1つ答えよ。
解答:モンバサ または モザンビーク
問35
ディアスの航海後、インド航路開拓を引き継いだ人物を答えよ。
解答:ヴァスコ=ダ=ガマ
問36
ディアス航海時、アフリカ西岸で建設されたポルトガルの重要な拠点を1つ答えよ。
解答:アルギン要塞(1448年)
問37
ディアス航海はトルデシリャス条約締結に影響を与えた。
解答:正(インド航路を巡るスペインとの競争を激化させた)
問38
ディアス航海時代、アフリカ西岸の奴隷貿易はすでに始まっていた。
解答:正(1444年リスボン奴隷市場公開)
問39
ディアスの航海は「価格革命」に直接つながった。
解答:誤(香辛料大量流入はダ=ガマ航海以降)
問40
ディアス航海の世界史的意義を15字以内で答えよ。
解答:喜望峰到達でインド航路開拓の可能性証明
第3章 ヴァスコ=ダ=ガマ ― インド航路開拓と香辛料貿易独占
1498年、ポルトガルの探検家ヴァスコ=ダ=ガマは、ヨーロッパ人として初めてインドのカリカットに到達しました。
これは、エンリケ航海王子が開いたアフリカ西岸探検と、ディアスによる喜望峰到達(1488年)の成果を受け継いだ偉業であり、ポルトガルが香辛料貿易を独占する「黄金時代」の幕開けとなりました。
大学入試では、「1498年=インド航路開拓」という単純暗記だけでは不十分です。
早慶レベルでは、航路の意義・交易失敗と成功・世界経済への影響まで問われることが多いため、体系的な理解が必要です。
1. ヴァスコ=ダ=ガマ航海の背景
15世紀後半、ヨーロッパでは香辛料需要が高まりました。
その背景には以下の3つの要因があります:
- ① オスマン帝国による東方貿易ルート支配
→ 1453年コンスタンティノープル陥落により、地中海経由の香辛料入手が困難に - ② 香辛料市場の高騰
→ 胡椒・クローブ・ナツメグなどはヨーロッパで「黒い金」と呼ばれるほど高価 - ③ 航海技術革新と地理情報の蓄積
→ エンリケの航海学校+ディアスの喜望峰到達でインド航路が現実化
こうした背景から、ジョアン2世の後を継いだマヌエル1世は、ヴァスコ=ダ=ガマに「インド直航路の開拓」を命じました。
2. 第1回航海(1497〜1499年)
(1) 航路の詳細
- 1497年7月、リスボン出港
- 喜望峰を回り、マリンディ(現ケニア)でアラブ商人の案内人を雇用
- 1498年5月、インド西岸のカリカット(現コーリコード)に到達
(2) 外交的失敗
- ポルトガルは胡椒や香辛料を求めたが、持参した商品はヨーロッパ産の粗末な織物など
- カリカットの豪商たちに軽視され、交易交渉は失敗
(3) 戻航の過酷さ
- 船員170名中、帰還時はわずか55名
- しかし到達の成果は莫大で、東方直航ルートの実現が証明されました。
3. 第2回航海(1502〜1503年)
失敗を教訓に、ポルトガルは大艦隊を派遣。
ヴァスコ=ダ=ガマは武力を伴い、カリカットを軍事的に制圧して香辛料貿易を強引に開始しました。
- 1503年:カリカット付近に拠点を築き、以後ポルトガルはアジア貿易を主導
- 1510年:アルブケルケがゴアを占領し、ポルトガルのインド総督府を設置
ここからポルトガルはインド洋制海権を握り、香辛料貿易を独占する体制を整えます。
4. ヴァスコ=ダ=ガマの功績と世界史的意義
(1) 香辛料貿易の支配構造を変革
- それまで東方貿易を支配していたアラブ商人・ヴェネツィア商人のネットワークを崩壊させた
(2) 世界経済の「海洋化」
- 大航海時代以前:シルクロード中心の陸上交易
- 大航海時代以後:海洋ルートが世界経済の主役に
(3) 価格革命への影響
- ヨーロッパに大量の香辛料や銀が流入し、物価が急上昇
- 経済史の重要トピックとして早慶で頻出

5. ヴァスコ=ダ=ガマの入試で狙われるポイント(問題40問付き)
- インド航路開拓(1498年)
→ 喜望峰を回り、カリカットに到達。
→ ヨーロッパ初のインド直航路開拓で、香辛料を直接入手可能にした。 - 香辛料貿易の直接取引化
→ アラブ商人やヴェネツィアを介さず、ポルトガルがアジアとの直接交易に成功。
→ 香辛料価格の大幅低下を招き、リスボンが香辛料貿易の中心地へ。 - ポルトガル海上帝国の形成
→ 第2回航海以降は武力を用いたアジア制圧に転換。
→ ゴア(1510年)やマラッカ(1511年)を拠点とし、インド洋交易網を支配。 - オスマン帝国との競合
→ 東地中海を支配するオスマン帝国を迂回することで、香辛料貿易の主導権を確保。
→ オスマン経済を弱体化させた点も入試で狙われる。 - 価格革命への影響
→ 香辛料や銀の大量流入は、16世紀のヨーロッパ物価上昇(価格革命)の要因の一つ。
第3章 演習問題:ヴァスコ=ダ=ガマ編≪論述問題編≫
- ヴァスコ=ダ=ガマの インド航路開拓(1498年) がヨーロッパの貿易構造に与えた影響を 100字以内で説明せよ。
-
ヴァスコ=ダ=ガマは喜望峰を回ってインド航路を開拓し、ポルトガルが香辛料を直接入手できる体制を築いた。これによりアラブ商人やヴェネツィアを迂回した交易が可能となり、大西洋交易圏形成の契機となった。
- ヴァスコ=ダ=ガマの航路開拓が 香辛料貿易の独占 に与えた影響をポルトガルのアジア進出と関連づけて 90字以内で説明せよ。
-
ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓により、ポルトガルは香辛料を直接輸入し、リスボンを中心とする貿易拠点を確立した。さらにゴアやマラッカを制圧し、インド洋交易網を支配して香辛料貿易を独占した。
論述ポイント
- 年号(1498年) は重要度高め
- アラブ商人・ヴェネツィアを迂回 → 香辛料貿易の構造変化
- リスボン中心の大西洋交易圏形成 → 世界経済史に直結
- インド洋拠点都市(ゴア・マラッカ) の関連も書けると得点加点
第3章 演習問題:ヴァスコ=ダ=ガマ≪レベル別40問≫
問1
ヴァスコ=ダ=ガマはポルトガル出身である。
解答:正
問2
ヴァスコ=ダ=ガマは1498年にインド西岸カリカットに到達した。
解答:正
問3
ヴァスコ=ダ=ガマの航海目的は新大陸到達である。
解答:誤(インド航路開拓)
問4
ヴァスコ=ダ=ガマは喜望峰を経由してインドに到達した。
解答:正
問5
カリカットでの最初の交易交渉は成功した。
解答:誤(香辛料とポルトガルの交易品が釣り合わず失敗)
問6
ヴァスコ=ダ=ガマが航海を開始した港を答えよ。
解答:リスボン
問7
ヴァスコ=ダ=ガマが航海した時代のポルトガル国王を答えよ。
解答:マヌエル1世
問8
ヴァスコ=ダ=ガマの航海によって香辛料貿易はポルトガル独占となった。
解答:正
問9
ヴァスコ=ダ=ガマは3回インド航海を行った。
解答:正
問10
ヴァスコ=ダ=ガマは後にインド総督に任命された。
解答:正
問11
ヴァスコ=ダ=ガマの航海で使用された新型船を答えよ。
解答:キャラベル船
問12
ヴァスコ=ダ=ガマ第1回航海で到達したインドの港市を答えよ。
解答:カリカット
問13
ヴァスコ=ダ=ガマ航海の結果、ヨーロッパの香辛料供給ルートはどう変わったか、30字以内で説明せよ。
解答:アラブ・ヴェネツィア商人を迂回し直接アジアから輸入可能となった
問14
ヴァスコ=ダ=ガマ航海の背景にあったオスマン帝国の影響を30字以内で答えよ。
解答:東地中海を支配し香辛料流通を抑えていたため、迂回路を模索した
問15
ヴァスコ=ダ=ガマ航海とリスボンの発展の関係を30字以内で説明せよ。
解答:香辛料貿易の中心港としてリスボンが繁栄した
問16
ヴァスコ=ダ=ガマ航海によりポルトガルが築いたアジア拠点を2つ答えよ。
解答:ゴア・マラッカ
問17
ヴァスコ=ダ=ガマ航海時にポルトガルが利用した航海技術を1つ答えよ。
解答:アストロラーベによる緯度測定
問18
ヴァスコ=ダ=ガマ航海は価格革命の原因の一部である。
解答:正(香辛料大量流入が物価上昇を引き起こした)
問19
ヴァスコ=ダ=ガマ航海以降、ポルトガルが設立したインド航路管理機関を答えよ。
解答:カサ・ダ・インディア
問20
ヴァスコ=ダ=ガマ航海の意義を20字以内で答えよ。
解答:インド航路を確立し香辛料貿易を独占
問21
ヴァスコ=ダ=ガマがインド西岸カリカットに到達した年を答えよ。
解答:1498年
問22
ヴァスコ=ダ=ガマの航海はスペイン王室の支援を受けて行われた。
解答:誤(ポルトガル王マヌエル1世の支援)
問23
ヴァスコ=ダ=ガマ第1回航海での出発地を答えよ。
解答:リスボン
問24
ヴァスコ=ダ=ガマは航路途中で喜望峰を経由した。
解答:正
問25
ヴァスコ=ダ=ガマが初めてインドに到達した際、交易交渉は成功した。
解答:誤(ポルトガルの交易品が香辛料に劣り、失敗)
問26
ヴァスコ=ダ=ガマ航海の最大の目的を20字以内で答えよ。
解答:インド航路開拓と香辛料貿易支配
問27
ヴァスコ=ダ=ガマ航海で使用された新型船の名称を答えよ。
解答:キャラベル船
問28
ヴァスコ=ダ=ガマ航海で用いられた航海技術のうち、星の高度から緯度を求める道具を答えよ。
解答:アストロラーベ
問29
ヴァスコ=ダ=ガマの航海成功により、ポルトガルは香辛料貿易を独占した。
解答:正
問30
ヴァスコ=ダ=ガマの航海の背景には、オスマン帝国による東地中海貿易支配があった。
解答:正
問31
ヴァスコ=ダ=ガマ航海以降、ポルトガルがインドに設置した拠点都市を答えよ。
解答:ゴア
問32
ヴァスコ=ダ=ガマはインド到達時にカリカットでポルトガル商館を設置した。
解答:誤(初回は設置できず、後の航海で実現)
問33
ヴァスコ=ダ=ガマ航海後、インド洋交易を支配したポルトガルの要塞都市を2つ答えよ。
解答:ホルムズ・マラッカ
問34
ヴァスコ=ダ=ガマの航海は価格革命に影響を与えた。
解答:正(香辛料大量流入により物価高騰)
問35
ヴァスコ=ダ=ガマ第2回航海は平和的交易ではなく軍事的行動が伴った。
解答:正
問36
ヴァスコ=ダ=ガマ航海によりリスボンは香辛料貿易の中心地となった。
解答:正
問37
ヴァスコ=ダ=ガマ航海を推進したポルトガル王を答えよ。
解答:マヌエル1世
問38
ヴァスコ=ダ=ガマ航海後、ポルトガルが香辛料貿易管理のため設置した機関を答えよ。
解答:カサ・ダ・インディア(インド管理局)
問39
ヴァスコ=ダ=ガマ航海時、ポルトガルと競合関係にあった地中海都市国家を答えよ。
解答:ヴェネツィア
問40
ヴァスコ=ダ=ガマ航路開拓の世界史的意義を15字以内で答えよ。
解答:インド航路開拓で香辛料貿易独占
まとめ
- 基礎:1498年カリカット到達を確実に暗記
- MARCH:第1回と第2回航海の違い・香辛料貿易独占の意義を整理
- 早慶:トルデシリャス条約、世界経済の海洋化、価格革命まで因果関係で押さえる
第4章 コロンブス ― 「新大陸発見」の象徴とその誤解
1492年、ジェノヴァ出身の航海者クリストファー・コロンブスは、スペイン王室の援助を受けて西回り航路に挑戦し、バハマ諸島に到達しました。
しかし、コロンブス自身は「インドに到達した」と信じており、彼が「新大陸を発見した」という認識は当時の人々にはなかったのです。
大学入試では、「1492年=コロンブス新大陸到達」という単純暗記では足りません。
早慶レベルでは、サンタ・フェ協定・トルデシリャス条約・大航海時代の世界観変化・先住民社会への影響など、幅広い視点からの理解が求められます。

1. コロンブスの航海計画とスペイン王室の支援
(1) 背景
- コロンブスはイタリアのジェノヴァ出身
- 当初はポルトガル王室に航海計画を提案するも拒否
- その後、スペイン王室(フェルナンド2世・イサベル1世)の支援を獲得
(2) サンタ・フェ協定(1492年)
- 航海資金提供の代わりに、成功時は「インディアス総督」および「発見地の10%の収益」を保証
- この契約が、コロンブスの野心を後押ししました
2. 1492年航海と到達地
(1) 航路の詳細
- 1492年8月、スペインのパロス港出港
- 船は3隻:サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号
- 約2か月後、10月12日にバハマ諸島のサンサルバドル島に到達
(2) 到達地の誤解
- コロンブスはアジア東岸の「インディアス」に到達したと誤認
- そのため現地住民を「インディオ」と呼んだ
(3) 先住民社会への影響
- コロンブス到達後、スペインは急速にカリブ海諸島を支配
- 強制労働と疫病により、先住民は急速に人口減少
3. コロンブスのその後の航海と挫折
- 第2回航海(1493):ヒスパニオラ島植民地化開始
- 第3回航海(1498):南米北岸到達
- 第4回航海(1502):中米沿岸探検
- 晩年は王室との対立で失脚し、1506年に失意のうちに死去
4. トルデシリャス条約と「世界分割」
コロンブス到達後、スペインとポルトガルは新大陸の領有を巡って対立。
これを調停したのがトルデシリャス条約(1494年)です。
- 教皇アレクサンデル6世が仲介
- アゾレス諸島の西370レグアに分界線を設定
- 東側=ポルトガル領、西側=スペイン領
- この結果、ブラジル(1500年カブラル発見)はポルトガル領となる
早慶レベルでは、コロンブス到達→トルデシリャス条約という因果関係がよく問われます。
早慶・MARCH頻出!トルデシリャス条約と関連年号を一気に整理できます。」
コロンブスの入試で狙われるポイント(問題40問付き)
- 西回り航路計画と出発(1492年)
→ スペイン王室(イサベル1世・フェルナンド2世)の支援を受け、パロス港を出発。
→ 目的は西回りでアジア到達だったが、到達地は新大陸だった。 - サンサルバドル島到達とカリブ探検
→ 第1回航海でバハマ諸島サンサルバドル島に到達。
→ さらにキューバ・イスパニョーラ島を探検し、植民拠点サントドミンゴを建設。 - トルデシリャス条約(1494年)との関係
→ コロンブス到達地の領有権を巡り、スペインとポルトガル間で条約を締結。
→ 大西洋上に分界線を引き、アメリカ大陸の大半がスペイン領に。 - コロンブス交換(生物・作物・疾病の双方向交流)
→ ヨーロッパから家畜・作物・疫病が新大陸に渡り、先住民人口は激減。
→ 新大陸からはジャガイモ・トウモロコシなどがヨーロッパに伝わり、人口増加に寄与。 - 価格革命への影響
→ 新大陸銀の大量流入はヨーロッパの貨幣量を増加させ、16世紀の物価高騰を引き起こす要因となった。
第4章 演習問題:コロンブス編≪論述問題編≫
- コロンブスの 新大陸到達(1492年) がヨーロッパ世界とアメリカ大陸に与えた影響を 100字以内で説明せよ。
-
コロンブスは西回り航路でバハマ諸島に到達し、新大陸の存在をヨーロッパに知らしめた。これによりスペインはカリブ海を拠点とした植民地経営を開始し、大西洋世界の形成が進んだ。
- コロンブス航海と トルデシリャス条約(1494年) の関連について、その背景と結果を踏まえて 80字以内で説明せよ。
-
コロンブスの到達地を巡る領有権争いから、スペインとポルトガルはトルデシリャス条約を締結した。これにより大西洋上に分界線が引かれ、ブラジル以外の新大陸はスペイン領となった。
- コロンブス交換 が世界の人口動態と経済に与えた影響をヨーロッパと新大陸の双方の視点から 100字以内で説明せよ。
-
コロンブス交換により、ヨーロッパから家畜・作物・疾病が新大陸に伝わり、先住民人口は激減した。一方、新大陸産作物や銀はヨーロッパ経済を活性化させ、価格革命を引き起こした。
論述ポイント
- 問題1 → 新大陸到達の意義(植民地経営・大西洋世界形成)
- 問題2 → 領有権争い → トルデシリャス条約 → 世界分割
- 問題3 → コロンブス交換の双方向性(人口・経済・作物・疾病)
第4章 演習問題:コロンブス≪レベル別40問≫
問1
コロンブスはジェノヴァ出身である。
解答:正
問2
コロンブスは1492年、スペイン王室の支援で西回り航路を探検した。
解答:正
問3
コロンブスは第1回航海でインドに到達した。
解答:誤(バハマ諸島サンサルバドル島)
問4
コロンブスに航海を許可したスペイン女王を答えよ。
解答:イサベル1世
問5
コロンブスの航海はサンタ・フェ協定に基づいて行われた。
解答:正
問6
コロンブスが最初に到達した島の名前を答えよ。
解答:サンサルバドル島
問7
コロンブスは合計4回航海を行った。
解答:正
問8
コロンブスは自分が新大陸を発見したと理解していた。
解答:誤(アジア到達と信じていた)
問9
コロンブス航海はトルデシリャス条約締結のきっかけとなった。
解答:正
問10
コロンブスはバハマ諸島に到達した年を答えよ。
解答:1492年
問11
コロンブス航海の目的を20字以内で答えよ。
解答:西回りでアジア到達を目指した
問12
コロンブスの航海を支援したスペイン王を答えよ。
解答:フェルナンド2世
問13
コロンブス第1回航海で使用した3隻の船のうち、旗艦の名前を答えよ。
解答:サンタマリア号
問14
コロンブス航海の結果、スペインが進出したカリブ海の拠点都市を1つ答えよ。
解答:ハバナ または サントドミンゴ
問15
コロンブス航海でスペインが得た最大の経済的利益を答えよ。
解答:銀山支配(ポトシ銀山など)
問16
コロンブス航海とヴェスプッチ探検の認識の違いを20字以内で説明せよ。
解答:コロンブスはアジア到達、ヴェスプッチは新大陸と認識
問17
コロンブス航海での「新世界」発見は価格革命につながった。
解答:正
問18
コロンブスが提案した航海計画を最初に拒否した国を答えよ。
解答:ポルトガル
問19
コロンブス航海以降、ヨーロッパに導入された作物を2つ答えよ。
解答:トウモロコシ・ジャガイモ
問20
コロンブス航海が大西洋交易に与えた影響を30字以内で答えよ。
解答:新大陸とヨーロッパ間の交易圏が形成された
問21
コロンブスが最初の航海で出発した港を答えよ。
解答:パロス港
問22
コロンブス第1回航海の出発年を答えよ。
解答:1492年
問23
コロンブスが最初に到達した島の名称を答えよ。
解答:サンサルバドル島
問24
コロンブスは当初から新大陸到達を目的としていた。
解答:誤(西回りでアジア到達を目指していた)
問25
コロンブス第1回航海で使用した3隻の船をすべて答えよ。
解答:サンタマリア号・ピンタ号・ニーニャ号
問26
コロンブスの航海を支援したスペイン王と女王を答えよ。
解答:フェルナンド2世・イサベル1世
問27
コロンブス航海の契約内容を定めた協定名を答えよ。
解答:サンタ・フェ協定
問28
コロンブスは第1回航海でカリブ海のキューバ島にも到達した。
解答:正
問29
コロンブスは合計4回航海を行った。
解答:正
問30
コロンブスは生涯を通じて到達地をアジアと信じていた。
解答:正
問31
コロンブス航海後、スペインとポルトガル間で締結された条約を答えよ。
解答:トルデシリャス条約(1494年)
問32
コロンブス航海によってヨーロッパに導入された作物を2つ答えよ。
解答:ジャガイモ・トウモロコシ
問33
コロンブス航海によってヨーロッパから新大陸に伝わった家畜を1つ答えよ。
解答:ウシ または ウマ
問34
コロンブス航海は「コロンブス交換」と呼ばれる現象を引き起こした。
解答:正
問35
コロンブス航海後、カリブ海に最初に建設されたスペイン植民都市を答えよ。
解答:サントドミンゴ
問36
コロンブス航海後のカリブ海プランテーションで最初に導入された作物を答えよ。
解答:サトウキビ
問37
コロンブス航海後、アステカ帝国を征服した人物を答えよ。
解答:コルテス
問38
コロンブス航海後、インカ帝国を征服した人物を答えよ。
解答:ピサロ
問39
コロンブス航海は「価格革命」の一因となった。
解答:正(新大陸銀の大量流入による物価高騰)
問40
コロンブス航海の歴史的意義を15字以内で答えよ。
解答:大西洋世界の形成と新大陸発見
まとめ
- 基礎:1492年、コロンブス到達・航路・条約を確実に暗記
- MARCH:サンタ・フェ協定・船団・先住民社会への影響を整理
- 早慶:トルデシリャス条約・世界観変化・コロンブス交換・価格革命まで因果関係で押さえる
第5章 マゼラン ― 世界周航と地球観の変革
1519年、ポルトガル生まれの航海者フェルディナンド・マゼランは、スペイン王室の支援を受けて世界周航に出発しました。
彼自身は航海途中で戦死しますが、部下のエルカーノらが1522年に帰還し、人類史上初の世界一周が達成されます。
マゼラン航海は、「地球は丸い」という認識を実証しただけでなく、香辛料諸島の帰属問題や太平洋の広大さを明らかにし、ヨーロッパの世界観を根底から変革しました。
ここでは、マゼラン航海の背景・航路・意義を、世界史受験生向けに詳しく解説します。
1. マゼラン航海の背景
(1) ポルトガルを離れてスペインへ
- マゼランはポルトガル生まれだが、ポルトガル王室と対立し、スペインに仕えることに
- 当時、トルデシリャス条約(1494年)で世界は東西に分割済み
- 香辛料諸島(モルッカ諸島)をどちらの領有とするかで、スペインとポルトガルが対立していた
(2) 西回り航路の挑戦
- 東回りインド航路はポルトガルが独占
→ スペインは西回り航路で香辛料諸島到達を狙う
2. マゼラン艦隊の世界周航(1519〜1522年)
(1) 船団と出発
- 1519年9月、セビリア港から出発
- 船団は5隻:約270人
(2) マゼラン海峡の発見
- 1520年、南米大陸南端を回り込み、狭い水路を抜ける
- 後にこの水路はマゼラン海峡と命名される
(3) 太平洋横断とセブ島での戦死
- マゼラン海峡を抜けた後、初めて太平洋を横断
- フィリピンのセブ島で現地部族との戦闘により戦死(1521年)
(4) エルカーノによる帰還
- 部下のフアン・セバスティアン・エルカーノが航海を継続
- 1522年9月、1隻「ヴィクトリア号」がスペインに帰還
→ 史上初の世界周航達成
3. マゼラン航海の世界史的意義
(1) 地球球体説の実証
- 当時すでに「地球は丸い」説は理論的に知られていたが、航海で実証されたのは初
(2) 太平洋の広大さを認識
- コロンブスは「西回り航路=すぐアジア」と考えていたが、太平洋横断には4か月を要し、予想外の広大さが判明
(3) 香辛料諸島の帰属問題
- マゼラン航海後もスペインとポルトガルはモルッカ諸島領有を巡って対立
- 1529年:サラゴサ条約でモルッカ諸島は最終的にポルトガル領に
(4) フィリピン進出の伏線
- マゼランの航海を契機に、スペインはフィリピンへ関心を持ち、
1543年にはフィリピン諸島を命名、1565年に植民地化
4. マゼランの入試で狙われるポイント(問題40問付き)
- 世界周航への出発(1519年)と達成(1522年)
→ マゼラン艦隊はスペイン王カルロス1世の支援で出発。
→ マゼラン本人はフィリピン・セブ島で戦死したが、エルカーノが率いる残存船「ヴィクトリア号」が世界周航を達成。 - マゼラン海峡発見と太平洋横断
→ 南米大陸南端に位置するマゼラン海峡を通過(1520年)。
→ 太平洋を初めて横断し、その広大さから「平和な海(Pacific)」と命名。 - フィリピン到達と戦死(1521年)
→ セブ島でキリスト教布教を試みるが、マクタン島の戦いで戦死。
→ スペインのフィリピン支配は、レガスピによる本格的植民地化(1565年〜)へとつながる。 - サラゴサ条約(1529年)との関係
→ 香辛料諸島(モルッカ諸島)の領有権を巡るスペイン・ポルトガル間の争いを調停。
→ 結果、モルッカ諸島はポルトガル領とされ、スペインはフィリピン経営へ方針転換。 - 太平洋交易圏形成の起点
→ マニラ(1571年)を拠点とするスペインのガレオン貿易が本格化。
→ アジアの銀と香辛料がメキシコ経由でヨーロッパへ流入し、世界規模の交易網が完成。
第5章 演習問題:マゼラン編≪論述問題編≫
- マゼランの 世界周航(1519〜1522年) が世界観と国際貿易に与えた影響を 100字以内で説明せよ。
-
マゼラン艦隊は初の世界周航を達成し、地球球体説を実証した。さらに太平洋の広大さを示し、ヨーロッパ・アジア・アメリカを結ぶ交易網形成の基盤を築いた。
- マゼラン航海後の サラゴサ条約(1529年) がポルトガルとスペインのアジア進出に与えた影響を 80字以内で説明せよ。
-
香辛料諸島の領有権を巡る争いの結果、サラゴサ条約が締結され、モルッカ諸島はポルトガル領とされた。スペインはフィリピン経営へと方針を転換し、アジア進出の拠点を得た。
- マゼラン航海が 太平洋交易圏形成 に与えた歴史的意義を
大航海時代の流れの中で 100字以内で説明せよ。 -
マゼラン航海により太平洋の航路が開拓され、スペインはフィリピンを拠点にアジア進出を本格化させた。これによりアジア産銀や香辛料がメキシコ経由でヨーロッパへ流入し、世界規模の交易網が形成された。
論述ポイント
- 問題1 → 世界周航=地球球体説実証+大西洋・太平洋・インド洋を結ぶ
- 問題2 → サラゴサ条約=モルッカ諸島→ポルトガル領+スペインはフィリピンへ
- 問題3 → 太平洋交易圏形成=マニラ・メキシコ間のガレオン貿易→世界経済一体化
第5章 演習問題:マゼラン≪レベル別40問≫
問1
マゼランはポルトガル出身である。
解答:正
問2
マゼラン航海はスペイン王室の支援で行われた。
解答:正
問3
マゼランは世界周航を達成した。
解答:誤(エルカーノが達成)
問4
マゼランが航海を開始した都市を答えよ。
解答:セビリア
問5
マゼランが航海中に発見した南米南端の水路名を答えよ。
解答:マゼラン海峡
問6
マゼランはフィリピンのセブ島で戦死した。
解答:正
問7
世界周航を達成した船の名前を答えよ。
解答:ヴィクトリア号
問8
マゼラン航海の目的は西回りで香辛料諸島に到達することだった。
解答:正
問9
マゼラン航海で到達した香辛料諸島の名前を答えよ。
解答:モルッカ諸島
問10
マゼラン航海は地球球体説を実証した。
解答:正
問11
マゼラン航海で最初に横断された大洋を答えよ。
解答:太平洋
問12
マゼラン航海で世界周航を達成した人物を答えよ。
解答:フアン・セバスティアン・エルカーノ
問13
マゼラン航海後にスペインとポルトガルが結んだ条約を答えよ。
解答:サラゴサ条約(1529年)
問14
マゼラン航海の主目的を20字以内で答えよ。
解答:西回りで香辛料諸島到達を目指した
問15
マゼラン航海がフィリピン植民地化につながった理由を30字以内で答えよ。
解答:航海でフィリピンの存在が注目され、後の植民地支配につながった
問16
マゼラン航海で得られた地理的発見を2つ答えよ。
解答:マゼラン海峡・太平洋の広大さ
問17
マゼラン航海における出発年と帰還年を答えよ。
解答:1519年出発、1522年帰還
問18
マゼラン航海が世界観を変革した理由を30字以内で答えよ。
解答:太平洋の広さと世界の一体性を認識させたため
問19
マゼラン航海の経済的意義を30字以内で答えよ。
解答:アジア香辛料貿易と太平洋交易路開拓の基盤を築いた
問20
マゼラン航海で到達した島々が属する国を答えよ。
解答:インドネシア
問21
マゼランはポルトガル出身である。
解答:正
問22
マゼランの世界周航計画を支援したのはスペイン王室である。
解答:正
問23
マゼラン航海の目的は、西回りで香辛料諸島への航路を開拓することであった。
解答:正
問24
マゼランが航海を開始した都市を答えよ。
解答:セビリア
問25
マゼラン航海で発見された南米南端の海峡名を答えよ。
解答:マゼラン海峡
問26
マゼランはフィリピンのセブ島で戦死した。
解答:正(1521年)
問27
世界周航を達成した船の名前を答えよ。
解答:ヴィクトリア号
問28
世界周航を達成した人物を答えよ。
解答:フアン・セバスティアン・エルカーノ
問29
マゼラン航海で最初に横断された大洋を答えよ。
解答:太平洋
問30
マゼラン航海で太平洋に到達した際、その広大さに驚き「平和な海」と名付けた。
解答:正(太平洋の語源)
問31
マゼラン航海後、香辛料諸島の領有権をめぐりスペインとポルトガル間で結ばれた条約を答えよ。
解答:サラゴサ条約(1529年)
問32
マゼラン航海で最終目的地とされた香辛料諸島の名前を答えよ。
解答:モルッカ諸島
問33
マゼラン航海によってフィリピンがスペイン領となった。
解答:誤(正式な植民地化は1565年以降、レガスピ時代)
問34
マゼラン航海は地球球体説を実証した。
解答:正
問35
マゼラン航海で到達した太平洋上の島を1つ答えよ。
解答:グアム島
問36
マゼラン航海での航路は大航海時代におけるスペインの優位を決定づけた。
解答:正(アジア進出と太平洋交易圏形成)
問37
マゼラン航海後、スペインが太平洋交易を展開する拠点となった都市を答えよ。
解答:マニラ
問38
マゼラン航海時、ポルトガルが香辛料貿易を独占していた拠点都市を答えよ。
解答:マラッカ
問39
マゼラン航海は「世界一周最初の成功例」であるが、艦隊の出航時の船数を答えよ。
解答:5隻(出航時)
問40
マゼラン航海の歴史的意義を15字以内で答えよ。
解答:世界周航達成と太平洋交易圏形成
まとめ
- 基礎:1519〜1522年の世界周航とマゼラン海峡・エルカーノを確実に暗記
- MARCH:香辛料諸島・サラゴサ条約・フィリピン植民地化の関連を整理
- 早慶:地球観の変化、交易圏形成、トルデシリャス条約との因果関係まで押さえる
第6章 アメリゴ・ヴェスプッチ ― 「アメリカ大陸」を定義した男
「アメリカ」という地名の由来となった人物こそ、イタリア出身の探検家アメリゴ・ヴェスプッチ(1454〜1512)です。
コロンブスの航海から約10年後、南米沿岸を探検したヴェスプッチは、到達した大陸がアジアではなく未知の「新大陸」であると主張しました。
ヴェスプッチ自身は大帝国を征服したわけではありませんが、「新大陸」という概念を世界に広めた功績により、アメリカ大陸にその名が刻まれることとなります。
1. ヴェスプッチの生涯と航海計画
- イタリアのフィレンツェ出身、メディチ家の商館員として航海経験を積む
- 当初はスペイン王室に仕えるが、その後ポルトガル王室にも従事
- 航海者でありながら、地理学者・天文学者的視点を持ち、航海記録を詳細に残した
2. 南米探検と「新大陸」認識
(1) 航海の概要
- 1499〜1502年:南米北岸やブラジル沿岸を探検
- 現地の自然・民族・星座・潮流などを詳細に観察
(2) 「新大陸」概念の提唱
- 1503年頃に書かれたとされる書簡『新世界(Mundus Novus)』で、
「到達地はアジアではなく、未知の大陸である」と主張 - この視点が、世界観を大きく変えることとなった
3. 「アメリカ」命名の経緯
(1) ヴァルトゼーミュラー世界地図(1507年)
- ドイツの地理学者ヴァルトゼーミュラーが作成した世界地図で、
南米大陸に「America(アメリカ)」と表記 - 理由は、ヴェスプッチが「新大陸を最初に認識した」と誤解されたため
(2) 「コロンブスではなくヴェスプッチ」問題
- 当時はコロンブスが新大陸到達を「アジア到達」と信じていたため、
新大陸と認識したヴェスプッチの名が地図上で採用された - 後世から見れば皮肉な命名となった
4. 世界史的意義
- (1) 新大陸概念の普及
- 「アジアの一部ではない大陸」の存在が初めて広く認識される
- (2) 世界地図の更新
- ヨーロッパ人の世界観を大きく変え、地理的知識を飛躍的に拡大
- (3) 入試で狙われるポイント
- 「アメリカ」の名称由来
- ヴァルトゼーミュラー世界地図(1507年)
- 『新世界』での新大陸認識
5. アメリゴ・ヴェスプッチの入試で狙われるポイント(問題40問付き)
- 南米沿岸探検(1499〜1502年)
→ スペイン王室の依頼で南米北岸を探検後、ポルトガル王室の命でブラジル沿岸を調査。
→ 南米大陸の海岸線を詳細に記録し、大西洋交易圏形成の基礎資料となった。 - 新大陸認識の確立
→ コロンブスが到達地を「アジア」と誤認したのに対し、
ヴェスプッチは**「新大陸」**であると見抜き、『新世界(Mundus Novus)』で発表。
→ これにより三大陸説(アジア・ヨーロッパ・アフリカ)が崩れ、世界観が一変。 - 「アメリカ」命名の起点(1507年)
→ ヴァルトゼーミュラー世界地図で南米大陸を「アメリカ」と記載。
→ ヴェスプッチの新大陸認識を高く評価した結果であり、名称は彼に由来。 - トルデシリャス条約(1494年)との関連
→ 探検地域であるブラジルは分界線の東側に位置し、ポルトガル領に確定。
→ ヴェスプッチの活動は、この条約の具体的な適用例として出題されることがある。 - 世界観の拡大と地図制作の革新
→ ヴェスプッチの航海記録は世界地図作成に大きく貢献。
→ ヨーロッパ人が世界の大陸構造を初めて意識する契機となった。
第6章 演習問題:アメリゴ・ヴェスプッチ編≪論述問題編≫
- アメリゴ・ヴェスプッチの航海による 新大陸認識 がヨーロッパ世界観に与えた影響を 80字以内で説明せよ。
-
ヴェスプッチは南米沿岸を探検し、到達地がアジアではなく新大陸であると認識した。これにより三大陸説が崩れ、ヴァルトゼーミュラー世界地図で「アメリカ」の名称が採用された。
論述ポイント
- 新大陸認識の重要性 → コロンブスはアジアと誤認、ヴェスプッチは新大陸と見抜いた
- 三大陸説崩壊 → ヨーロッパ人の世界観を根本的に変革
- 「アメリカ」命名の契機 → ヴァルトゼーミュラー地図(1507年)
第6章 演習問題:アメリゴ・ヴェスプッチ≪レベル別40問≫
問1
ヴェスプッチはフィレンツェ出身である。
解答:正
問2
ヴェスプッチはブラジル沿岸を探検した。
解答:正
問3
ヴェスプッチは世界周航を達成した。
解答:誤(マゼラン艦隊)
問4
ヴェスプッチが「新大陸」認識を広めた書簡のタイトルを答えよ。
解答:『新世界(Mundus Novus)』
問5
ヴァルトゼーミュラー世界地図(1507年)で南米大陸に付けられた名称を答えよ。
解答:アメリカ
問6
ヴェスプッチは最初からポルトガル王室に仕えていた。
解答:誤(初めはスペイン王室に仕えた)
問7
ヴェスプッチ探検は新大陸認識を広めた。
解答:正
問8
ヴェスプッチはヴァルトゼーミュラー世界地図の作成に直接関与した。
解答:誤
問9
「アメリカ」という名称はヴェスプッチの名に由来する。
解答:正
問10
ヴェスプッチが探検した年代を答えよ。
解答:1499〜1502年
問11
ヴェスプッチが到達した南米北岸の港市を1つ答えよ。
解答:リオデジャネイロ など
問12
ヴェスプッチとコロンブスの認識の違いを20字以内で述べよ。
解答:コロンブスはアジア到達、ヴェスプッチは新大陸と認識
問13
ヴァルトゼーミュラー世界地図が画期的だった理由を30字以内で述べよ。
解答:南米大陸を独立した新大陸と初めて描いたため
問14
ヴェスプッチの新大陸概念が世界観に与えた影響を30字以内で述べよ。
解答:三大陸説を覆し、新たな大陸観を広めた
問15
ヴェスプッチの探検に影響を与えた人物や商館を答えよ。
解答:メディチ家
問16
ヴェスプッチの航海を支援した2つの国を答えよ。
解答:スペイン・ポルトガル
問17
ヴェスプッチ航海の成果がヨーロッパの地理認識に与えた影響を30字以内で説明せよ。
解答:アジア以外の大陸存在を確信させ、世界地図更新を促した
問18
ヴェスプッチ航海がスペインとポルトガルの対立に影響を与えた理由を30字以内で答えよ。
解答:新大陸領有権を巡る競争を激化させたため
問19
ヴェスプッチ航海が「アメリカ」命名につながったのはなぜか、30字以内で述べよ。
解答:新大陸を最初に認識したと誤解されたため
問20
ヴェスプッチ航海の世界史的意義を20字以内で述べよ。
解答:新大陸概念を世界に広めた
問21
アメリゴ・ヴェスプッチはフィレンツェ出身である。
解答:正
問22
ヴェスプッチは最初スペイン王室の依頼で航海した。
解答:正(のちにポルトガル王室にも仕えた)
問23
ヴェスプッチが探検した主な地域を答えよ。
解答:南米北岸・ブラジル沿岸
問24
ヴェスプッチはコロンブスと同様に到達地をアジアと信じていた。
解答:誤(新大陸と認識)
問25
ヴェスプッチが「新大陸」を提唱するきっかけとなった書簡の名称を答えよ。
解答:『新世界(Mundus Novus)』
問26
ヴェスプッチの新大陸認識は、ヴァルトゼーミュラー世界地図(1507年)に影響を与えた。
解答:正
問27
ヴァルトゼーミュラー世界地図では、南米大陸に「アメリカ」という名称が付けられた。
解答:正(ヴェスプッチの名に由来)
問28
ヴェスプッチはヴァルトゼーミュラー地図の作成に直接参加した。
解答:誤(間接的に影響を与えた)
問29
ヴェスプッチは当初スペイン王室に仕えたが、のちにポルトガル王室の探検にも参加した。
解答:正
問30
ヴェスプッチ航海の期間を答えよ。
解答:1499年〜1502年
問31
ヴェスプッチがブラジル沿岸を探検した際に立ち寄った湾の名称を答えよ。
解答:リオデジャネイロ湾
問32
ヴェスプッチの新大陸認識が三大陸説を覆した。
解答:正(アジア・ヨーロッパ・アフリカに加え新大陸を認識)
問33
ヴェスプッチ航海後、ポルトガル領となった地域を答えよ。
解答:ブラジル
問34
ヴェスプッチが新大陸探検を行った背景には、トルデシリャス条約の影響があった。
解答:正(条約によりブラジルがポルトガル領となった)
問35
ヴェスプッチ航海はサラゴサ条約締結の直接のきっかけとなった。
解答:誤(サラゴサ条約はマゼラン航海後の香辛料諸島領有争い)
問36
「アメリカ」という名称がヴェスプッチに由来する理由を答えよ。
解答:新大陸を最初に「アジアではない」と認識したと誤解されたため
問37
ヴェスプッチはインド到達を果たした。
解答:誤(インドには到達していない)
問38
ヴェスプッチ航海は大西洋交易圏形成に影響を与えた。
解答:正(新大陸資源開発を促進)
問39
ヴェスプッチの探検によってブラジルの重要性が早期に認識された。
解答:正
問40
ヴェスプッチ航海の歴史的意義を15字以内で答えよ。
解答:新大陸概念を世界に広めた
まとめ
- 基礎:「アメリカ」という地名の由来とヴェスプッチの航海年を暗記
- MARCH:新大陸概念・ヴァルトゼーミュラー世界地図・コロンブスとの比較を整理
- 早慶:世界観変化・地図製作・領有争い・大西洋交易への影響まで押さえる
第7章 カボット父子 ― イギリス大航海時代の幕開け
ポルトガルとスペインが主導した大航海時代に、やや遅れて参入したのがイギリスです。
その先駆けとなったのが、イタリア生まれの航海者ジョン・カボット(1450頃〜1499)と、その息子セバスチャン・カボット(1474〜1557)でした。
ジョン・カボットは1497年、ニューファンドランド島に到達し、イギリスの北米進出の端緒を開きます。
ニューファンドランド島は、北米大陸東岸沖(現在のカナダ)に位置し、カボット父子が到達した地として重要です。
周辺海域は世界有数のタラ漁場で、中世以来ヨーロッパの漁業経済を支えました。
この到達を根拠に、イギリスは北米領有権を主張し、後の植民地進出につながります。
一方、セバスチャンは南米航路探検を試み、さらに北西航路探査でも活動しました。
ここでは、カボット父子の探検とその意義を詳しく解説します。
1. ジョン・カボットと北米探検
(1) 背景
- イタリア・ヴェネツィア生まれで、航海術に長けていた
- スペインとポルトガルがトルデシリャス条約(1494)で世界を二分したため、
イギリスは北方からアジアへの航路を模索
(2) ニューファンドランド到達(1497年)
- ヘンリー7世(チューダー朝)の援助を得て、
イギリス西岸ブリストル港を出航 - 北大西洋を横断し、ニューファンドランド島に到達
- 当初はアジア到達と誤認したが、北米へのイギリス領有権主張の根拠となる
2. セバスチャン・カボットの南北探検
(1) 南米航路探検
- 1508年、スペイン王室の依頼で南米北岸を探検
- ラプラタ川河口に到達し、南米内陸の地理を把握
(2) 北西航路探査
- 1526年以降、イギリスに戻り北西航路を模索
- 北米北岸から北極海方面の航路を調査するも、失敗
3. イギリス大航海時代の端緒としての意義
- (1) 北米進出の根拠を形成
- ジョン・カボットのニューファンドランド到達は、後のイギリス植民地化政策の基礎に
- (2) 北西航路探査の開始
- セバスチャンは北極圏からアジアへの航路を模索し、後の地理探検につながった
- (3) フランスとの植民競争の火種
- 同じ頃、フランスのジャック・カルティエがセントローレンス川を探検
→ 北米領有権を巡る英仏対立が始まる
- 同じ頃、フランスのジャック・カルティエがセントローレンス川を探検
4. カボット父子の入試で狙われるポイント(問題40問付き)
- ジョン・カボットの北西航路探査(1497年)
→ イギリス王ヘンリー7世の支援を受け、ブリストル港から出航。
→ 北西航路を目指す途中で ニューファンドランド島に到達し、北米大陸を初めて踏破したヨーロッパ人とされる。 - ニューファンドランド到達の意義
→ 豊富なタラ漁場の存在をヨーロッパに知らしめる。
→ イギリスが後に北米領有権を主張する根拠となり、13植民地時代への布石となった。 - セバスチャン・カボットの航海
→ ジョンの息子で、スペイン王室・イギリス王室の双方に仕えて探検。
→ 南米のラプラタ川河口や北極海を調査し、北西航路開拓を試みるも失敗。 - トルデシリャス条約(1494年)との関係
→ イギリスは条約の分界線交渉には参加しておらず、
「ニューファンドランド到達」を根拠にスペイン・ポルトガルとは別ルートで北米進出を正当化した。 - 英仏植民地競争への布石
→ イギリスの北米進出がフランスとの領有権争いを引き起こす。
→ この流れは後の「フレンチ=インディアン戦争(18世紀)」にもつながる重要な伏線。
第7章 演習問題:カボット父子編≪論述問題編≫
- ジョン・カボットの航海(1497年)が
イギリスの 北米進出 に果たした役割を 80字以内で説明せよ。 -
ジョン・カボットはイギリス王ヘンリー7世の支援で北西航路を探り、ニューファンドランド島に到達した。この航海はイギリスの北米領有権主張の根拠となり、後の植民地進出の端緒となった。
論述ポイント
- 年号(1497年) → 重要度高
- 北西航路探査の目的 → アジア航路開拓を目指した
- ニューファンドランド到達 → 漁場価値+イギリス領有権の根拠
- 北米植民地進出の先駆け → 13植民地・英仏競争への伏線
第7章 演習問題:カボット父子≪レベル別40問≫
問1
ジョン・カボットは1497年、ニューファンドランド島に到達した。
解答:正
問2
ジョン・カボットはスペイン王室の支援を受けた。
解答:誤(イギリス王室ヘンリー7世の支援)
問3
ジョン・カボットはイギリス生まれである。
解答:誤(ヴェネツィア出身)
問4
ジョン・カボットが航海の出発地とした港を答えよ。
解答:ブリストル港
問5
ニューファンドランド島は現在どの国の領土か。
解答:カナダ
問6
セバスチャン・カボットは父ジョンの跡を継ぎ、南米ラプラタ川河口に到達した。
解答:正
問7
セバスチャン・カボットは北極海を経由する北西航路の探査も行った。
解答:正
問8
ジョン・カボットの航海はイギリス北米領有権主張の根拠となった。
解答:正
問9
セバスチャン・カボットはポルトガル王室にのみ仕えていた。
解答:誤(スペインにも仕えていた)
問10
カボット父子はイギリス大航海時代の先駆け的存在である。
解答:正
問11
ジョン・カボットがニューファンドランドに到達した1497年当時、世界を二分していた条約を答えよ。
解答:トルデシリャス条約(1494年)
問12
ジョン・カボット航海の目的を20字以内で答えよ。
解答:北方からアジアへの新航路を探すため
問13
セバスチャン・カボットが探査した北西航路とは何か、20字以内で説明せよ。
解答:北極海を経由しアジアに至る航路
問14
カボット父子の探検は、イギリスにどのような影響を与えたか、30字以内で述べよ。
解答:北米領有権主張を可能にし、後の植民政策の契機となった
問15
カボット父子と同時期に北米セントローレンス川を探検したフランス人航海者を答えよ。
解答:ジャック・カルティエ
問16
カボット父子の探検は、後にどの国との植民地競争につながったか。
解答:フランス
問17
ジョン・カボットの航海は当初アジア到達と誤認された。
解答:正
問18
ニューファンドランド周辺が当時注目された理由を答えよ。
解答:豊富なタラ漁場があったため
問19
セバスチャン・カボットはスペイン王室からどの地域探検を依頼されたか。
解答:南米北岸・ラプラタ川流域
問20
カボット父子の探検が北米植民地形成に与えた影響を30字以内で答えよ。
解答:イギリス植民地政策の基盤を築き、13植民地形成につながった
問21
ジョン・カボットはヴェネツィア出身である。
解答:正
問22
ジョン・カボットはイギリス王ヘンリー7世の支援で航海した。
解答:正
問23
ジョン・カボットの第1回航海は1497年である。
解答:正
問24
ジョン・カボットは第1回航海でニューファンドランド島に到達した。
解答:正
問25
ジョン・カボットは航海計画を最初にスペイン王室に持ち込んだ。
解答:誤(最初はイギリス王室に提案)
問26
ジョン・カボット航海の主目的は北西航路を経由したアジア到達であった。
解答:正
問27
ジョン・カボットが航海の出発地とした港を答えよ。
解答:ブリストル港
問28
ジョン・カボットは北米大陸を「インド」と誤認した。
解答:正
問29
ジョン・カボット航海はイギリスによる北米領有権主張の根拠となった。
解答:正
問30
セバスチャン・カボットは父ジョンの跡を継ぎ、南米ラプラタ川河口に到達した。
解答:正
問31
セバスチャン・カボットは北西航路探査のため北極海に向かった。
解答:正
問32
セバスチャン・カボットはスペイン王室からも航海を依頼された。
解答:正
問33
ジョン・カボットの航海時、世界を分割した条約を答えよ。
解答:トルデシリャス条約(1494年)
問34
ジョン・カボットはフランス王室の支援で第2回航海を行った。
解答:誤(イギリス王室の支援)
問35
ジョン・カボットの到達地ニューファンドランドは、当時から豊かな漁場として知られていた。
解答:正(タラ漁場で有名)
問36
セバスチャン・カボットはスペインから南米探検を依頼され、ラプラタ川流域を探索した。
解答:正
問37
ジョン・カボット航海の目的地であったニューファンドランドは現在アメリカ合衆国領である。
解答:誤(現在はカナダ領)
問38
カボット父子の探検は、イギリスとフランスの北米領有権争いを引き起こした。
解答:正
問39
セバスチャン・カボットは北西航路探査に失敗した理由として、過酷な寒冷気候が挙げられる。
解答:正
問40
カボット父子の探検の歴史的意義を15字以内で答えよ。
解答:イギリス北米進出の先駆け
まとめ
- 基礎:ジョン=ニューファンドランド到達(1497)、セバスチャン=北西航路探査を暗記
- MARCH:トルデシリャス条約との関係、英仏競合、タラ漁場の重要性を整理
- 早慶:北米領有権主張、植民政策、英仏植民地戦争の伏線まで因果関係で押さえる
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