神聖ローマ帝国は、中世から近世にかけてヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼしました。
しかし、962年にオットー1世が皇帝として戴冠し成立したこの帝国は、絶頂期を迎える一方で、徐々に皇帝権の弱体化という不可逆の流れに巻き込まれていきます。
その始まりが「カノッサの屈辱(1077年)」であり、やがて「大空位時代(1256〜1273年)」を経て、法制度的に権威を縛られる「金印勅書(1356年)」、そして「ウェストファリア条約(1648年)」によって弱体化が決定的となりました。
本記事では、この弱体化のプロセスを「直線的な流れ」で整理します。各出来事の意味と位置づけを押さえれば、神聖ローマ帝国の歴史を俯瞰できるだけでなく、入試で頻出のテーマに強くなります。
さらにその後のドイツが「オーストリア」と「プロイセン」に分裂して近代を迎える流れも踏まえ、体系的な理解を目指しましょう。
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また、大学入試では、用語の暗記だけでなくどのような切り口で試験に理解することが重要です。
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また、各章末には重要論述問題とその解答例を準備しています。これらは理解を助けることを目的に作成した参考例であり、実際の入試や模試でそのまま最適化された解答とは限りません。論述問題には複数の解答の可能性があるため、本番ではここで得た知識を活かし、自分の言葉で答案を構成するようにしてください。
第1章 神聖ローマ帝国弱体化の始まり:カノッサの屈辱と叙任権闘争
1-1 カノッサの屈辱の背景
11世紀の神聖ローマ帝国では、皇帝が司教や修道院長を任命する権利=叙任権をめぐり、皇帝と教皇が激しく対立していました。
とくにハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)とグレゴリウス7世(教皇)との間で争われた「叙任権闘争」が有名です。教皇は「聖職者の任命権は霊的権威である自分にある」と主張し、皇帝の権威を否定しました。
この対立が激化し、1077年、ハインリヒ4世は雪の積もるカノッサ城の門前で三日三晩謝罪し、破門を解いてもらうことになりました。これが「カノッサの屈辱」です。

1-2 意味と影響
カノッサの屈辱は、皇帝が教皇に屈服した象徴的事件として位置づけられます。
以後、皇帝の権威は大きく損なわれ、諸侯や都市にとっては「皇帝は必ずしも絶対ではない」という認識が広がりました。
つまり、弱体化の始まりを告げる出来事だったのです。
1-3 叙任権闘争のその後
叙任権闘争はその後も続き、最終的には1122年の「ヴォルムス協約」で、皇帝と教皇が妥協しました。
皇帝は聖俗の権限を完全には保持できず、教皇権の優位が確認されました。
この合意は「神聖ローマ帝国の皇帝が単独で支配できる時代の終わり」を示すものでした。
入試で狙われるポイント
- カノッサの屈辱(1077年):皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世の対立。
- 叙任権闘争の背景:聖職叙任権をめぐる争い。
- ヴォルムス協約(1122年):皇帝と教皇が妥協し、皇帝権が制限された。
- カノッサの屈辱を中心に、叙任権闘争が神聖ローマ帝国の皇帝権に与えた影響について200字程度で説明せよ。
-
叙任権闘争は、皇帝が聖職者任命権を独占しようとしたことに対し、教皇が霊的権威を主張して対立したものである。1077年のカノッサの屈辱で、皇帝ハインリヒ4世は破門を解かれるために教皇に屈服し、皇帝権威は大きく傷ついた。その後も争いは続き、1122年のヴォルムス協約で皇帝は叙任権を制限され、教皇の優位が認められた。これにより、神聖ローマ皇帝は諸侯や都市に対して絶対的権威を失い、弱体化の流れが始まった。
第1章:神聖ローマ帝国の弱体化の流れ 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
カノッサの屈辱が起きたのは西暦何年か。
解答:1077年
問2
カノッサの屈辱の際に教皇に屈服した皇帝は誰か。
解答:ハインリヒ4世
問3
カノッサの屈辱で対立した教皇は誰か。
解答:グレゴリウス7世
問4
叙任権闘争とは何をめぐる争いか。
解答:聖職叙任権
問5
叙任権闘争を終結させた協定は何か。
解答:ヴォルムス協約
問6
ヴォルムス協約が結ばれたのは何年か。
解答:1122年
問7
ヴォルムス協約で皇帝は何を制限されたか。
解答:聖職叙任権
問8
叙任権闘争が神聖ローマ帝国に与えた影響を一言で言うと何か。
解答:皇帝権の弱体化の始まり
問9
叙任権闘争で優位に立ったのは皇帝か教皇か。
解答:教皇
問10
カノッサの屈辱の舞台となった城はどこか。
解答:カノッサ城
正誤問題(5問)
問1
カノッサの屈辱では、教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世に謝罪した。
解答:誤(謝罪したのは皇帝ハインリヒ4世)
問2
叙任権闘争は聖職者の任命権をめぐる争いであった。
解答:正
問3
ヴォルムス協約により、教皇は聖俗双方の叙任権を完全に失った。
解答:誤(むしろ教皇の優位が確認された)
問4
カノッサの屈辱は1077年に起きた。
解答:正
問5
ヴォルムス協約は12世紀前半に結ばれた。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- カノッサの屈辱の年号を間違える(1066年のノルマン征服と混同)。
- 誰が謝罪したかを逆に覚える(教皇が謝罪したと誤解)。
- ヴォルムス協約で皇帝が勝ったと誤解(実際は教皇優位)。
- 叙任権闘争=教皇の権威低下と誤解(実際は皇帝権威の弱体化が始まる)。
2章 シュタウフェン朝とイタリア政策の失敗:皇帝権のさらなる弱体化
2-1 シュタウフェン朝の成立と赤ひげ王
シュタウフェン朝(1138〜1254年)は、神聖ローマ帝国の中でも特に「イタリア政策」に力を注いだ王朝でした。
とりわけフリードリヒ1世(赤ひげ王、在位1152〜1190年)は、北イタリア支配を目指して積極的に遠征を繰り返しました。
しかしイタリアでは、ロンバルディア同盟と呼ばれる都市同盟が教皇と結んで抵抗。
1176年のレニャーノの戦いで皇帝軍は敗北を喫し、北イタリアの都市の自立を認めざるを得ませんでした。この敗北は、神聖ローマ皇帝のイタリア支配の限界を象徴する出来事でした。

2-2 フリードリヒ1世と第3回十字軍
フリードリヒ1世は十字軍運動にも積極的でした。
1189年に始まった第3回十字軍では、イギリス王リチャード1世やフランス王フィリップ2世と並ぶ指導者として遠征に参加します。
しかし、1190年に小アジアで事故死してしまい、軍は統率を失いました。この出来事は帝国に大きな衝撃を与え、遠征の失敗だけでなく、皇帝の不在がドイツ本土の政治的混乱をさらに助長しました。

2-3 フリードリヒ2世と諸侯の自立
フリードリヒ2世(在位1215〜1250年)は「中世最後の皇帝」とも呼ばれる存在で、文化面では「シチリアの奇跡」と呼ばれる繁栄を築きました。
しかし彼もイタリア政策に固執し、南イタリアを支配下に収める一方で、ドイツ本土では諸侯の自立を許してしまいました。
結果として、帝国は形式的には強大でありながら、実質的には皇帝が本土を掌握できない「空洞化」した体制へと向かっていきます。この流れは、やがて「大空位時代」につながっていきました。
入試で狙われるポイント
- フリードリヒ1世(赤ひげ王):イタリア遠征を推進するも、1176年レニャーノの戦いで敗北。
- 第3回十字軍(1190年):フリードリヒ1世が途中で戦死。
- フリードリヒ2世:文化的功績は大きいが、イタリアに注力しすぎてドイツ本土の統制力を失った。
- シュタウフェン朝のイタリア政策が神聖ローマ皇帝の弱体化をもたらした理由について200字程度で説明せよ。
-
シュタウフェン朝の皇帝は、北イタリアの支配に執着した。フリードリヒ1世は都市同盟と戦ったが、1176年レニャーノの戦いで敗北し、イタリア支配の限界を露呈した。さらに第3回十字軍に参加するも戦死し、帝国の統制は揺らいだ。フリードリヒ2世も南イタリア支配に注力したため、ドイツ本土の統治は手薄となり、諸侯の自立が進展した。このようにイタリア政策の失敗は、皇帝権の弱体化を加速させる結果となった。
第2章:神聖ローマ帝国の弱体化の流れ 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
シュタウフェン朝が始まったのは西暦何年か。
解答:1138年
問2
フリードリヒ1世の異名は何か。
解答:赤ひげ王
問3
フリードリヒ1世が敗北した戦いは何か。
解答:レニャーノの戦い
問4
レニャーノの戦いが起きたのは何年か。
解答:1176年
問5
レニャーノの戦いで皇帝に勝利したのはどの勢力か。
解答:ロンバルディア同盟
問6
第3回十字軍に参加した神聖ローマ皇帝は誰か。
解答:フリードリヒ1世
問7
第3回十字軍でフリードリヒ1世はどのような最期を迎えたか。
解答:小アジアで事故死
問8
フリードリヒ2世は主にどの地域の支配に力を注いだか。
解答:イタリア
問9
フリードリヒ2世の時代、ドイツ本土で進展したのは何か。
解答:諸侯の自立
問10
シュタウフェン朝が滅んだのは西暦何年か。
解答:1254年
正誤問題(5問)
問1
フリードリヒ1世はロンバルディア同盟に勝利し、北イタリアを完全支配した。
解答:誤(敗北して支配はできなかった)
問2
レニャーノの戦いは1176年に起きた。
解答:正
問3
第3回十字軍に参加した皇帝フリードリヒ1世は、聖地エルサレム奪回に成功した。
解答:誤(途中で戦死し、十字軍は失敗に終わった)
問4
フリードリヒ2世は南イタリア支配を強めたが、ドイツ本土では統制力を失った。
解答:正
問5
シュタウフェン朝の皇帝たちは、イタリア政策に注力したことで帝国の弱体化を加速させた。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- レニャーノの戦いを皇帝の勝利と誤解。実際は都市同盟に敗北。
- 第3回十字軍=皇帝フリードリヒ1世の勝利と勘違い。実際は戦死で失敗。
- フリードリヒ2世=皇帝権強化と誤解。実際はイタリア偏重で諸侯の自立を許した。
- シュタウフェン朝=帝国最盛期と誤認。実際は弱体化を加速させる時代。
3章 大空位時代と金印勅書:皇帝権の制度的弱体化
3-1 大空位時代(1256〜1273)
シュタウフェン朝の断絶後、神聖ローマ帝国では皇帝が選出されない「大空位時代」が続きました(1256〜1273年)。この間、名目上は複数の人物が皇帝候補として並立しましたが、実質的にはドイツの諸侯が勝手に振る舞う状態でした。
この大空位時代は、皇帝不在という異常事態が長期にわたり続いたことで、帝国の中央権力が完全に空洞化した時期といえます。諸侯の独立性が決定的に強まり、「皇帝がいなくても帝国は成り立つ」という認識が広がりました。

3-2 ハプスブルク家の登場と皇帝の地位
1273年、ついに諸侯たちはハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝に選出しました。
ここからハプスブルク家が帝位を長期にわたり保持する流れが始まります。
ただし、この皇帝即位は諸侯たちの同意を前提としたものであり、皇帝は自らの力で即位したのではなく「諸侯に選ばれる存在」としての性格を強めました。
3-3 金印勅書(1356)
さらに、カール4世(ルクセンブルク家)が1356年に発布した「金印勅書」は、皇帝選出の手続きを正式に法制化しました。選帝侯(7人)が皇帝を選ぶ仕組みが規定され、これ以降、皇帝は諸侯に従属する立場が制度として確立したのです。
金印勅書は「神聖ローマ帝国の弱体化を法的に固定した」転換点であり、諸侯が国家的な実権を握り、皇帝は名目的支配者へと後退していくことを意味しました。

入試で狙われるポイント
- 大空位時代(1256〜1273):皇帝が不在となり、諸侯が独立化。
- 1273年:ハプスブルク家ルドルフ1世が皇帝に選出。
- 金印勅書(1356年):カール4世が発布、選帝侯7人による皇帝選出を法制化。
- 弱体化の「制度化」という点を押さえること。
- 大空位時代と金印勅書が神聖ローマ帝国の皇帝権に与えた影響について200字程度で説明せよ。
-
シュタウフェン朝断絶後、1256〜1273年の大空位時代には皇帝不在が続き、諸侯の自立が決定的に進展した。1273年にはハプスブルク家ルドルフ1世が選出されたが、皇帝は諸侯の同意によって即位する存在へと変化した。その後、カール4世が1356年に発布した金印勅書により、選帝侯7人が皇帝を選ぶ制度が法制化された。これにより、皇帝は制度的に諸侯に従属する立場が固定され、帝国の弱体化は不可逆的に進んだ。
第3章:神聖ローマ帝国の弱体化の流れ 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
大空位時代が始まったのは西暦何年か。
解答:1256年
問2
大空位時代が終わったのは西暦何年か。
解答:1273年
問3
大空位時代に特徴的だった帝国内の状況を一言で言うと何か。
解答:皇帝不在と諸侯の独立化
問4
1273年に皇帝に選ばれたのは誰か。
解答:ルドルフ1世
問5
ルドルフ1世はどの王朝の出身か。
解答:ハプスブルク家
問6
金印勅書を発布した皇帝は誰か。
解答:カール4世
問7
金印勅書が発布されたのは西暦何年か。
解答:1356年
問8
金印勅書で皇帝を選ぶ権限を持ったのは誰か。
解答:選帝侯7人
問9
金印勅書が意味する神聖ローマ皇帝の地位の変化は何か。
解答:諸侯に従属する立場の制度化
問10
金印勅書は神聖ローマ帝国の弱体化をどのように位置づけたか。
解答:制度的に固定化した
正誤問題(5問)
問1
大空位時代は皇帝が存在せず、諸侯の独立化が進んだ。
解答:正
問2
大空位時代は1256年から1300年まで続いた。
解答:誤(1256〜1273年まで)
問3
1273年に皇帝に選出されたルドルフ1世はハプスブルク家の人物である。
解答:正
問4
金印勅書は選帝侯による皇帝選出を禁止した文書である。
解答:誤(むしろ制度化した)
問5
金印勅書の発布は、皇帝権の弱体化を制度として固定化した転換点である。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 大空位時代の年号を長く取りすぎる(13世紀全体と誤解)。
- 皇帝ルドルフ1世をブルボン家やルクセンブルク家と混同。
- 金印勅書=皇帝権強化と誤認(実際は弱体化の制度化)。
- 選帝侯の人数を間違える(正しくは7人)。
- 金印勅書の年号1356を三十年戦争と混同。
4章 三十年戦争とウェストファリア条約:皇帝権の決定的弱体化
4-1 三十年戦争の背景
17世紀初頭の神聖ローマ帝国は、宗教改革以降の宗派対立と、諸侯の利害が複雑に絡み合う不安定な状況にありました。
1618年、ベーメンでの反乱を契機として三十年戦争が勃発します。こ
の戦争は当初、カトリックとプロテスタントの宗教対立として始まりましたが、やがてフランスやスウェーデンなどの列強も介入し、ヨーロッパ全体を巻き込む大戦へと発展しました。

4-2 皇帝の限界
戦争中、皇帝フェルディナント2世(ハプスブルク家)はカトリック側の中心として権威を主張しました。
しかし、プロテスタント諸侯や外国勢力に翻弄され、皇帝の指導力は十分に発揮されませんでした。
特にスウェーデン王グスタフ=アドルフの参戦やフランスの介入によって、戦争は宗教の枠を超え、国家間の勢力争いの色を強めていきました。
皇帝は名目上の存在にとどまり、諸侯の軍事力・外交力が実質的に戦局を左右しました。
4-3 ウェストファリア条約(1648)
戦争は長期化し、1618年から30年にわたって続きました。
最終的に1648年のウェストファリア条約で講和が成立します。この条約によって、帝国内の諸侯は自ら外交権や宗教決定権を持つことが正式に認められました。
つまり、神聖ローマ帝国は「一つの国家」ではなく、実質的に数百の独立した領邦国家の集合体に変貌したのです。
このためウェストファリア条約は、しばしば「神聖ローマ帝国の死亡証明書」とも呼ばれます。皇帝の地位は完全に名目的なものとなり、権力は取り戻せないほどに弱体化しました。
4-4 その後の展開:オーストリアとプロイセンへ
ウェストファリア条約以降、神聖ローマ帝国は形式上は存続しましたが、実態は分裂国家の寄せ集めでした。
17世紀後半からは、帝国内で特に力を持った「オーストリア(ハプスブルク家)」と「プロイセン(ホーエンツォレルン家)」が中心的存在となり、やがて18世紀のドイツ二大国時代へとつながっていきます。
この「皇帝の名目的地位化」と「二大国の台頭」は、近代ドイツ史を理解する上で欠かせない重要なポイントです。
入試で狙われるポイント
- 三十年戦争(1618〜1648年):宗教対立から始まり、列強の介入でヨーロッパ規模の戦争に拡大。
- フェルディナント2世:皇帝としてカトリック側を主導するも限界を露呈。
- ウェストファリア条約(1648年):諸侯の外交権・宗教決定権を承認し、皇帝権は名目的存在へ。
- 戦後の展開:オーストリアとプロイセンがドイツの二大勢力として台頭。
- 三十年戦争とウェストファリア条約が神聖ローマ帝国の皇帝権に与えた影響について200字程度で説明せよ。
-
三十年戦争は1618年にベーメンでの反乱から始まり、宗教対立を契機に諸侯と列強が介入する大規模戦争へと発展した。皇帝フェルディナント2世はカトリック側を主導したが、スウェーデンやフランスの介入により皇帝の権威は十分に発揮できなかった。1648年のウェストファリア条約では、諸侯に外交権と宗教決定権が認められ、皇帝権は名目的存在となった。これにより神聖ローマ帝国は実質的に分裂国家の集合体となり、弱体化が決定的に確定した。
第4章:神聖ローマ帝国の弱体化の流れ 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
三十年戦争が始まったのは西暦何年か。
解答:1618年
問2
三十年戦争のきっかけとなった地域はどこか。
解答:ベーメン
問3
三十年戦争で皇帝としてカトリック側を主導したのは誰か。
解答:フェルディナント2世
問4
三十年戦争に参戦したスウェーデン王は誰か。
解答:グスタフ=アドルフ
問5
三十年戦争に介入した西ヨーロッパの大国はどこか。
解答:フランス
問6
三十年戦争を終結させた講和条約は何か。
解答:ウェストファリア条約
問7
ウェストファリア条約が結ばれたのは何年か。
解答:1648年
問8
ウェストファリア条約で諸侯に認められた二つの権利は何か。
解答:外交権・宗教決定権
問9
ウェストファリア条約によって神聖ローマ皇帝の地位はどうなったか。
解答:名目的存在となった
問10
戦後、ドイツで台頭した二つの国はどこか。
解答:オーストリアとプロイセン
正誤問題(5問)
問1
三十年戦争は当初からヨーロッパ全体を巻き込む大戦争として始まった。
解答:誤(当初は宗教対立から始まった)
問2
三十年戦争は1618年から1648年まで続いた。
解答:正
問3
ウェストファリア条約で皇帝の外交権は強化された。
解答:誤(諸侯に外交権が認められ、皇帝は弱体化)
問4
ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国は実質的に分裂国家の集合体となった。
解答:正
問5
ウェストファリア条約後、ドイツで台頭したのはオーストリアとプロイセンである。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 三十年戦争の原因を「宗教改革そのもの」としてしまう(正しくはベーメン反乱が直接の契機)。
- スウェーデン王をカール5世やフィリップ2世と混同。
- ウェストファリア条約=皇帝権強化と誤解(実際は弱体化が決定的)。
- 条約の年号1648を間違えてフランス革命と混同(1789)。
- オーストリアとプロイセンの台頭を見落とす。
まとめ 神聖ローマ帝国弱体化の流れを一気に整理
神聖ローマ帝国は、オットー1世以来ヨーロッパに大きな影響を与えましたが、その権威は「弱体化の直線的プロセス」をたどり続けました。
まず、カノッサの屈辱(1077年) により皇帝権威は初めて大きな傷を負いました。
続く叙任権闘争とヴォルムス協約(1122年)で、教皇権の優位が確認され、皇帝権の弱体化は制度的に始まりました。
次に、シュタウフェン朝(12〜13世紀)のイタリア政策が失敗に終わり、特にレニャーノの戦い(1176年)の敗北や、第3回十字軍でのフリードリヒ1世戦死(1190年)は帝国の結束を揺るがしました。
さらにフリードリヒ2世もイタリアに注力した結果、ドイツ本土で諸侯の自立が進みました。
やがて、大空位時代(1256〜1273年)には皇帝不在が続き、帝国の空洞化が顕著となりました。
これにより「皇帝は諸侯の同意を得て選ばれる存在」へと転じ、金印勅書(1356年)によって選帝侯制度が法制化され、皇帝権は制度的に制限されました。
そして決定的だったのが、三十年戦争(1618〜1648年)とウェストファリア条約(1648年)です。この条約で諸侯は外交権・宗教決定権を獲得し、神聖ローマ皇帝は完全に「名目的存在」となりました。
以後のドイツは、オーストリア(ハプスブルク家)とプロイセン(ホーエンツォレルン家)の二大勢力を中心に展開していき、近代の統一ドイツへと向かう伏線となりました。
受験生にとって重要なのは、「神聖ローマ帝国は最初から弱かったのではなく、事件ごとに段階的に弱体化していった」というプロセスを押さえることです。
この流れを年表とフローチャートで確認しておきましょう。

神聖ローマ帝国弱体化の年表(まとめ)
年代 | 出来事 | 意味・位置づけ |
---|---|---|
1077 | カノッサの屈辱 | 皇帝が教皇に屈服 → 権威に初めて大きな傷 |
1122 | ヴォルムス協約 | 教皇優位を確認、皇帝権の制限 |
1176 | レニャーノの戦い | 皇帝が都市同盟に敗北、イタリア支配の限界 |
1190 | 第3回十字軍でフリードリヒ1世戦死 | 皇帝の不在 → 諸侯の自立に拍車 |
1256〜1273 | 大空位時代 | 皇帝不在、諸侯独立化が顕著に |
1356 | 金印勅書(カール4世) | 選帝侯制度を法制化、弱体化を制度化 |
1618〜1648 | 三十年戦争 | 宗派対立+列強介入で帝国の混乱 |
1648 | ウェストファリア条約 | 諸侯の外交権・宗教決定権承認、皇帝は名目的存在に |
神聖ローマ帝国弱体化の流れ(フローチャート)
カノッサの屈辱(1077)
↓
【権威に初めて傷】
皇帝が教皇に屈服 → 皇帝権の弱体化が始まる
↓
シュタウフェン朝のイタリア政策失敗(12〜13世紀)
↓
【支配力の低下】
イタリア遠征で消耗 → ドイツ本土の統制力低下
↓
第3回十字軍(1190)
↓
【皇帝戦死で国力に打撃】
フリードリヒ1世戦死 → 諸侯の自立が進展
↓
大空位時代(1256〜1273)
↓
【空洞化】
皇帝不在 → 諸侯の独立化が顕著に
↓
金印勅書(1356)
↓
【制度化】
選帝侯が皇帝を選出 → 弱体化を法制的に固定
↓
ウェストファリア条約(1648)
↓
【決定的】
諸侯が外交権・宗教決定権を獲得 → 皇帝は名目的存在へ
↓
その後:オーストリアとプロイセンが台頭 → 近代ドイツへ
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